メイクと自己愛
私は今日とても楽しいところへ行ってきた。パーソナル・ヘアメイクというのだろうか、プロの人が化粧をしてくれ、ついでに写真を撮ってくれるのだ。
私が訪ねたヘアーメイクアーティストのAさんは、超大物である。女性だったら、たぶん雑誌で名前をよく知っているはずだ。
ヘアメイクは誰がやっても同じ、と思っていたらそれは大きな間違いだ。その人のテクニック、センス、才能でものすごい違いが出てくる。メイクにもふた通りあって、その人をうんとキレイに見せようとするプロと、うんとおしゃれに今っぽく見せようとするプロがいるものだ。Aさんは後者のタイプ。
Aさんは言った「女の人っていうのは、いったん自分が覚えたメイクを、本当に変えようとしないんだよね。若い時に身につけたそのまんまを、ずっと引きずっていくから困っちゃうよね」
ひとつ自分にぴったりのメイクを手にいれたからといって、これにとどまってはいけない。流行や人の顔というのは日々動いているものだし、着るものや出かけるシチュエーションによってメイクをかえるというのは、当然のこと。
鏡の中で繰り広げられるマジック。目の下ちょっとひと刷毛したハイライト、目尻に入れるライン。おお、びっくり、痩せ薬の影響で一睡もできないまま朝を迎えた私の瞳はぬれぬれとなる。モード系ファッション誌のグラビアのような、ものすごく先鋭的なメイクをしてくれた。私をモデルか何かと勘違いしているみたい(なわけないか)
生まれ初めて、プロの人にしてもらったときの感激を私は忘れない。それまで嫌で嫌でたまらなかった自分の唇。厚くて、丸い。
今までデパートの化粧品売り場の女性たちはこう言ったもんだ「コンシーラーで塗りつぶして、目立たなくするのがコツよ」
ところがプロの人は、いきなりこの唇をさらに大きくはみ出すように描いたじゃないの。すると不思議、いじけていた私の唇は、あだったぽく、とてもカタチよく見えるではないか。もちろん厚くて丸いけど、それがどうしたのさって唇自身が言っている。つまり、こういうことが“個性”だって、私は教えてもらったわけだ。
メイクが終り、その変わり様ときたら皆さんにお見せしたかったわ。別人とまで言わないまでも、私のいとこか妹みたいに若返った。手配書に使った化粧品の名前と番号もメモしてきたので、明日さっそく買いに行くことにしよう。そして写真も撮ってもらう。ヘアメイクのAさんはとてもよい人で、ちゃんとつきっきりで見ていてくれる。女性が見違えるようにキラキラしてくるのを見るのがとても嬉しいんだそうだ。
さて、Aさんにメイクしてもらった顔で、私はパーティーに出かけた。タクシーに乗っている間、眠っていればいいものを、この顔を自慢するのに忙しい。そう、そう、女友達何人かに先ほどの写真を送らなければ。
「恵美子さんばっかりキレイになって羨ましい」という返事がくる嬉しさといったらない。
いよいよパーティーの会場へ。友人でもおしゃれでセンスある人は「わあー、今日はどうしたのぉ、すごくキレイ。ぐっとアカぬけたわよねえ」と誉めてくれる。が、オバさんコンサバファッションしかしらない知人は「何よ、それ。芸能人の真似してるみたい」などと言う。こんな感想しか持たず、ピンクの昔っぽい色のリップを塗っているから、すぐにオバさん化の波はやってくるのだと私は心の中で思った。
「女性は清楚な人がいい」という男性も少なからずいるだろうが、今の女性はもうそんなのに構っちゃいない。自分のことが楽しくてしょうがないから、クリエイティブな要素があるから、どんどん化粧をする。化粧がうまい女性というのは、自己愛が強いということを証明しているようなもので、自分に興味があるのだ。
自分対して興味を持つ女性は他人に対しても興味を持っている。他人に対して興味を持っている女性は世間にも興味を持っている。こういう人はタダの女性であるはずはない。最新のコスメで外側を固めたら、おしゃれなレストランや素敵な夜遊びで内側だっていい思いをさせることを知っているのだ。大人の社交場において、みずみずしい会話ができるかどうかということは、大人の女性にとってこれからの人生を大きく二分するものである。
私は何度でも言う。化粧はその女性のフレキシビリティをあらわすものなのであり、生き方と深く結びついているのだ。
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