蕩ける夜はふけて

私は玄関で靴を履いた。なんと8cmのピンヒールのパンプスである。これを履くと足がうんと長く見えてカッコいいのだ。睡眠不足のため足がむくんでいる私。おそるおそる足を踏み出したところ、甲のあたりが吸いつくようでなんとも感じが良い。これならなんとかいけるかもしれない。

玄関の壁にはめ込まれた鏡の向こうを見つめると、そこには長身のすこぶるつきの美人がいた(ように映っていた)。もう気分はモデルよ、「エミ・コレです!」と高らかに叫び、廊下をスタスタと闊歩して、ひとりファッションショーごっこをしてみる。あっ、いけない、待ち合わせの時間が迫っている。モデルは(私のことね)、それを履いて地下鉄に乗り指定のバーへと向かったのである。


ある時間から、ハイヒールは拷問道具へと変わる。親指と小指が悲鳴をあげるのだ。バランス感覚を失った私は、手すりに沿って地下鉄の階段を降りていく。すると、ルールを無視して向こう側から上がってくる人がいる。道を譲るために、私が命の綱とも思う手すりから手を離さなくてはならない。私は決して誇張ではなく、恐怖のあまり心臓が波打っているのがわかるのである。一瞬たりとも、油断してはならないと思った。


私は友人ですっごい美人の言葉を思い出す「いい、ハイヒールを履くからには、終日履き続けなければならないのよ。女性としてズルをしないことが、美人力を高めるのよ」

女性はハイヒールを一日履いた日は、脚をうんとやさしくする。お風呂に入ってマッサージをし、足の指まで丁寧にクリームをすりこむ。フラットシューズならしない。やはりこういうことを女性にさせるだけでも、ハイヒールは偉大なのだ。

けなげな私は頑張った。歯を食いしばり、Mちゃんが待つバーへと急いだ。


この店はものすごく広い不思議な空間で、お客もディスプレイとして注目されるという感じであった。

ここは東京中のオシャレは人が集まっているところではなかろうか。流行のファッションを銘々取りどりにさらりと着こなした男女がびっしり座っていて、人いきれでむんむんしている。スマホを持つ指先もキマッている、スツールに座るときの足の動きも素人さんっぽくない。自分たちが被写体になることを充分意識している。わくわくするような高揚感を与えてくれる人たちばかりだ。


そしてテーブルの下でわかんないように手を握ったり、目を見つめ合ったりしている。もちろんキスなんかはしている人はいなかったけど、それ以上のことを目と目でしていたかも。そう、みんなお酒を飲みに行くためだけにバーに行くんじゃない。自分の好きな人を見せびらかしに行くんだ。時代の風がいちばん吹いている店に、好きな人と身を置きたいと思う。人のざわめき、音楽、いちばん新しい風の中で見つめ合う。こうして思い出って出来ていくものなのだ。あの時をどう生きたかのモノサシは、仕事なんかじゃなく、誰とどんな店に行ったかなのだ。


しかし男性たちの興味をひいたのは、あきらかにMちゃん。モテる女独特の傲慢さ、美しさ、においがMちゃんの背中からむらむらと立ちのぼっている。とにかく店内を変えるぐらいのパワーなのだ。

Mちゃんはハイブランドのバッグを無造作にテーブルの上に置く。わりと乱暴に扱われた高価なバッグというのは、いかにも驕慢な美女という感じで渇仰してしまう私である。


中でも背が高くひときわ目立っていた、眉目秀麗さに憂いを含んだ男性がもの慣れた様子で、いかにも遊び人らしくMちゃんに近寄ってきた。ぶっきらぼうな喋り方。“並レベル”の男性にあれをやらえると、女性はむすっとするが、イケメンの男性だとぐにゃりとなるものだ。本人もそれをよく知っている喋り方である。


彼は体を楽器のように動かし音のないところに音色を奏でて、Mちゃんを蝶よ花よとちやほやする。その絶妙なリズムに合わせてMちゃんはゆるくウェーブががった髪を踊らせるのだ。そのカッコよさには文句のつけようがないではないか。眩しすぎて私は目がくらみそうになった。恋愛の一軍の方々というのは、こういうものなのかと垣間見たのだ。


モテる男性というのは、女性に関して一流の鑑識眼を持っている。「美人だね」とか「キレイだね」などとありきたりのことを言わない。他の男性が気づかないところや、あるいは本人が欠点だと思っているところを、美点として誉め讃えるのだ。

そしてモテる女性もこれに対して身構えたりしない。男性が近づいてきても、へんに屈折したり、深読みしない。さよう、モテる女というのは、男と女のことを複雑に考えたりしないのだ。「私に気があるのね。私とデートしたいんだわ」とすぐに上ずった声が出たり、警戒心から体が固くなる、というのは論外である。


私はこういうドラマティックなことが大好き。Mちゃんの運命が大きく変わるかもしれないんだわ。老婆心に火がついて、せっついてやりたくなるのだ。が、Mちゃんはそのイケメンの彼を軽くかわす。そのかわし方が年季が入っていて、女性の私でもぐらっときた。


その夜はMちゃんのモテ方というのは尋常ではなく、独壇場となった。実際男性の転がし方なんて、見ていてホレボレするほどだ。これほどモテるのに、Mちゃんは浮ついたところがなく、その心の渇き具合もヨーロッパ映画を見てるようで大層カッコいい。

きっとMちゃんは恋愛の特権階段だろうと思っていたが、間違っていなかったと私は確信をさらに強くしたのである。


この後続きがあります。

Botanical Muse

貴方だけの綺麗のたしなみを身につけ、美的なものを楽しむことを知っている人になりましょう。

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